独り言
ふと思うのだ
今は至福と思える瞬間も、いつかは当たり前になってしまうのかと
そして、それは少し寂しいな、と一粒零した
存在してはいけない人・思想など無く、存在するくらいなら別にかまわないだろう
それを表に出し、行動するのはまた別かもしれないけれど
人が人の中でどう考えようが、それは人の勝手だ
ただ現実に出すと、ルールやら何やらでダメと言われたり厄介事に巻き込まれたりするのだ
私の親身な相談は、たいてい冷たいだとか酷いと言われる
でも、しょうがないじゃないか
自分の事は所詮、誰が何を言おうとも自分で決めることだし
他人が自分の思い通りにならないのも、当たり前なことだし
他者のあり方を否定したって、そのあり方が変わるわけでもなし
全部、しょうがないことじゃないか
私もしょうがないことを考えたり思ったり口にしたりする
けど、それはやっぱり無意味で、しょうがないことなのだ
でもそんなこれも、嫌いじゃない
心が弱ると出てくる症状。自分など居なければ良かったのだと考えるクセ
振り返れば「あの時ああすれば」と思う後悔がたくさん
でもまだ生きてる
だからその後悔を、些細なものすら引きずりながら歩いていく
貴方の信じる、常識的で優しい世界など何処にも存在しないのだ
そう錯覚する世界があるとしたら、それは非常識で無情な人生をみな上辺に見せていないだけの事
だって、人が自分の影を簡単に他人を見せると思うの?
オープンな人なら見せるでしょうよ。でも、きっと貴方ならしない。そうでしょう?
私の事を一部でも、一つでも、ほんの少しでも否定したものは私の敵である
と、私の過剰防衛本能が告げ、感情を乱そうとする
しかしそんなはずはないと、理性の部分で理解しては居るのも事実である
その狭間で日々自分の本能を騙しつつ生きていたり、いなかったり
サヨナラとありがとうの詰まった引出し
大丈夫。少しずつ成長していくから
間違いながら、つまづきながら、それでもまだ進める
ただ一つ思う
みんな元気にしてるかなぁ、なんてね
過去の名残=何か行動をする前に誰かに許可を得ようとする
現在の抗い=許されなかったそれを無視しての実行
誰かへ許可を得る行為の無意味化
あとは名残を拭うだけ。そして責任を持つだけ
「自己犠牲」という言葉は好きじゃない
「犠牲」という言葉は、『望んでいないのに被害にあったりする事』だと私は考える
故に「自己犠牲」とは、自ら「犠牲」になる事や「犠牲」を仕方ないと諦めている状態のように思われる
所詮自分はちっぽけな人間で
自分よりも大変な思いをしている人や、強い人などいくらでもいる
そう感じる瞬間がある
でもそのちっぽけながら、ちっぽけなりに生きていこう
一歩一歩が大切だ
幸せを掴む事が怖くて拒絶した事がある
「許されるのか。手を伸ばす事が」
否と答える自問自答に、まほろばの養父が答えた
「幸せになって良い」
だから、幸せを受け入れようと思う
他人を差し置いて幸せになる事を、申し訳ないなどと思わない
むしろ自分の幸せを分け与えられる様努力しよう
そうする事で彼女が“彼女”という存在を保てるのであれば、止めはしない
咎めもしないし、責めもしない、否定もしない
ただその全てが“彼女”であり、それ以外の何者でもないだけだ
早く、支え合う柱が見つかる事を願う
仮に見つかるならば、傾きすぎて倒れぬ様、気をつける事を願う
近づき過ぎる→巻きつけた荊=棘で傷つける
親しくなればなるほど辛辣になる言葉の壁
傷付けまいと自制=フラストレーションの増加
消化方法→創作活動・鑑賞活動・他の欲求へのすり替え
拭いきれない仄かな期待=より深く自分を理解してくれるのではないか
自己と他者の境界引きが危うくなる瞬間。3年前に非現実的であると理解→諦観
未だ理解できぬもの→信頼と依存と都合の良い存在の違い
2/3で不調和な関係である疑い。不意に襲う群れの中での孤立感
考え過ぎ=人間不信への入り口。入り込まぬよう思考を停止
結論→他人との距離の取り方は難しい
世間は個性を尊重する。らしい
でも固定観念というものは良くないという
しかし範疇という組分けがなければ個性は成り立たない
その中には“女性らしさ”“男性らしさ”といったものもあるだろう
女性だからこうだ、男性だからこうだ、というのが固定観念だとすればそれも良くない事なのだろうか
なのだとしても、女性らしさ、男性らしさは現代において要求されるらしい
何やら難しい事だ
戻る